Youtubeを検索していたら、どこか見覚えのある場所が映っていた。それは、エジンバラ郊外の小さな小川沿いに作られたツリー村だった。
ツリー村というのは、80,90年代にイギリスで広がった森林保全運動のなかで生まれた抵抗術と生活の場の不思議な有機的結合の産物だ。90年代のイギリスでの高速道路拡張計画と同時に、工事によるむやみな森林伐採に反対する人々が、森林保護と工事撤回を求める運動を起した。比較的良く知られている名前としてはReclaim the streetがあり、今では都市の路上解放運動に軸を移しているが、もともとは野外での森林を保護する運動から始まったものだったそうだ。
エジンバラにいた時に、一度だけアメリカ人のアクティビストに連れて行ってもらったことがある。エジンバラの市内を抜けて、南の高速道路を超えた小さな小川が流れる、なだらかな谷の両側のそれはあった。
木々の上には大きな怪鳥の巣のような小屋が乗っかっている。一番高いものでは30メートルも上に、ベニヤや、廃棄されていた窓枠で囲って3帖くらいの平らなスペースを枝と枝との間に確保して、住居スペースを作る。簡易テントの骨組み等で天井の構造を決め、その上にブルーシートを被せて屋根を張る。側面にはどこか一カ所ガラス窓をはめ込み、下が見渡せるようにしている。
なぜ、木の上に住むのか?もうお分かりだと思うけれど、元々は道路拡張の名目で次々に切られ、削られて行く森林や雑木林の保護のために始まった運動だ。木の上に住むということは、切り倒される予定であつた木々の上に住むということだ。それだけで工事の進行を遅くしたり、時には建設そのものを変更させたりする。非暴力に基づいた、独創的な抵抗の技法だ。だから、ツリーハウスに住む人たちは、ツリーハウスを固定する時に釘や木の表面を傷つける道具は使わない。すべてが強度のあるヒモで結んであるだけだ。ヒモは一年に2回くらいは取り替えるらしい。ツリーハウスに登るには、木の枝を伝って登って行く。住んでる方は慣れたもので、身軽にひょいひょい登っていくが、都会慣れした鈍いからだにはちょっとばかりの気合いが必要だった。中は以外と広かったりもして、頭をかがめれば立つ事も出来る。寝袋は必需品だ。夜の明かりはロウソク。
川の側に建てられた台所小屋やたき火のある集会所、図書室、食料貯蔵庫等生活の中心となる施設は地面に建てられている。電気は通っていない、だから冬は皆たき火のまわりに座ってお茶をわかし、料理する。近くのスーパーで捨てられた食材を集めて皆で分けて食べる。僕が行った時は、パンと焼いたソーセージ(もどき)だった。テント村の真ん中を通る川は、近くの科学研究所の排水で汚染されているので、公共の水道まで水を汲みに行く。トイレの設備が秀逸だった、ちょっと離れた場所に、2.5メートルくらいの高さのトイレ小屋がある。上下に仕切ってあり、上は板ばりの上に段差をつけて便座がある。下の方は、どこからもってきたのかビン(イギリスでどこでも見かける車輪付きのゴミ箱)が置いてあって、上からそのままポットンと落ちる仕組みになっている。終わったら砂箱から砂をかけておしまい。
近所の人はどう思っているのだろうと聞いてみると、以外と関係は良好だと返事が返ってきた。もともと高速道路が近くにできるのを喜ぶ住民はいないし、結局かれらの活動で白紙になったのだから、まあ夜パーティで騒いだり、マリファナの葉っぱを吹かすくらいは大目に見ているということらしい。
たしかに、みんな身なりは汚い感じ(僕の目から見ると)に映ってしまうし、泥だらけの手でパンをちぎって分けるし、風呂もないので臭いことは臭い。けれどそこで僕は改めて思う。この汚れは本当に忌み嫌うべき「不潔」なんだろうか?その汚れは、自然と人間の生活が技術と文明によって切り離されていく以前の段階においては、すなわち「不潔なもの」として対象化される以前には、自然のただ中で生きる人間の営みと不可分、その一部分であったのではないだろうか?むしろ、その感覚は、どれだけ僕の生活が自然と完全に切り離されているのかを測る指標として受け取ったほうがいいのではないだろうか。
確かに、僕らは、彼らに比べて「きれい」なのかもしれない。でもそれは、僕らの身体が自分の生において不可避的に生み出す「余剰」を穢れとして、外部に無理矢理排出しているその頻度が彼らよりも多いというだけだ。彼らの食事用の皿は所々に汚れがこびりついてるかもしれない、僕の家の皿はピカピカだ、ただしそれは、僕らが、彼らの使う水の何倍もの量を汚染し、垂れ流した結果に過ぎないのだ。つまり、結果的に外部(自然)により多くの負担を押し付けることでしか、僕たちの「清潔」という観念は実現していない訳だし、自分の内部の自然(自我の周囲でざわめき、取り囲むようにして生起するもの)に対する過度の恐怖心と無知の度合いが僕たちの清潔/不潔の線引きを決定しているということになる。現代の人間の生活の利便性と快適さはすべからく、外部への一方的な負荷の排出によって成り立っているのだから。
もちろん、人間の歴史はまた病気や感染との戦いでもあり、そこに衛生の観念の果たした役割は無視できないものがある。しかし、みずからの個体の衛生を偏執狂的になるあまり、自分の生を包む生命システム(自然環境)そのものを拒否するようになったとき、つまり身の回りの清潔と快適の保持の為にその他の生命と自然を圧迫する生活を築き上げてしまった時には、僕らの目にはすべてのものが「野蛮」として目に映るようになっているだろう(潔癖性という症状はここに由来する)。ただ、それは他者を野蛮と名付ける者自身が最も野蛮であるというのと同様に、自身の無知と偏見を倒錯して外部に投影しているに過ぎない。
自分が吐き出す諸々の生の負荷物(と見なされているもの)をもう一度、すこしでも再び引き受けて生活しようとしているツリーハウスの住人は、ただの環境運動という名目を超えた、人間の基本的な条件とは何かという問いをこの現代のただ中においてふたたび想像させる。そしてそれは、けっして生活の質の退化などという話ではない。なによりも、夏の木々の木漏れ日が顔の上に降り注ぐことの幸福感だろうし、スコットランドの風と小鳥の歌声、葉のざわめく音の中でまどろむ心地よさだったり、小川の上に掛けられたハンモックに寝そべって拾ってきたサンドイッチを食べることだったり、夜のたき火を囲んで、パーティをしたり歌をうたったりすることでもあったり、寒い冬の朝にたき火に手をかざす時の安心感だったりすると思う。それは愉快かつ大変で、得したり損したり、喜んだり怒ったり、そんなごた混ぜの気分になるに違いない。それに、そこではすべて自分たちで自分たちの生活をつくりだしている、何ひとつとして他人任せ、知らん顔していいことなんてない。すべての出来事に全身で関わっている。薪を集め、火を起すところから始まり、水を汲み、お茶をわかし、スーパーで廃棄されたハムを焼き、溜まったトイレのうんこを捨ててくる、川で洗濯して、夜は、小さく揺れるツリーハウスの中で、ロウソクの明かりで本を読み、木々の葉のこすれる音、風のうねりを聞きながら夢をみる。そして重要なのは、それらの自然の中で出会う日常的経験そのものが、道路建設への反対という極めて政治的な行動の中において生み出され、経験されているという事実だ。そこには自然と人間の間に、破壊の対象ー破壊の主体という一方的な関係ではない、相互依存的な、贈与的な関係が人間と自然との間で有機的に編み出されている。その一見牧歌的風景に見えるこのツリーハウスでの生活は、政治的意識とその実現としての抵抗運動の継続の中でのみ、人工的なキャンプ場では実現し得ない、自然と人間の相互共存的関係の再構築の生きた実践として意味を持つのである。
彼らの生活のもろもろをここですべて紹介できないし(原子力発電の反対の為の道路封鎖戦術の話はとても面白かったりしたが)、きちんと背景から現在に至までの経緯も詳しく知っているわけではない。ただ、木の上に住み、食料を求めて歩き、夜は皆で火のまわりに集い、歌をうたい、ハッシシを吸い、木々を守る人々が今もどこかにいるという事実が、僕のわかりきった顔をした世界観と説明じみた口調にまた一つ空隙を空けてくれたという事実!暖かくなったら、もう一度あの場所にもどって、ホームステイをしようと計画中なので、もし興味があるひとは是非!
エジンバラのツリーハウスの映像
Bilston Glen Anti-Road Protest Site (Part 1)
Newbury:Wars of the British Tree People - 42 min documentary
ココ
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2008-03-10
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