ベルリンから帰ってきました。3週間、友人達の家に泊まり、ずっとベルリンの中で過ごした。冷戦終結後のベルリンはまさに巨大な空き地だった。90年代、人々はそこに来て自由の空気を吸い、仲間をみつけ、共に空家を修理して住み、無味乾燥とした壁に無数のグラフティを残した。
それから10数年、昔のような自由の領域は今では少なくなってきている、廃墟同然の東ベルリンは、今では有数の高級住宅になっている地区もある。それでも、僕にとってベルリンは、まだ「自由」の空気が街のあちらこちらに、雨の後の水たまりのように残っているように思う。
毎晩、新しい人と出会った。アーティスト、アナキスト、アクティヴィスト、友人の友人、とそのまた友人。ベルリンで初めて人に会う時には、その人の肩書きや職業なんてのはあまり意味が無いことに気がつくと思う。それよりも、その人がどんな考え方をしていて、何を今しているのか、そしてその人のそれぞれ固有の顔と声こそが最も信頼に足る手がかりで、社会的地位なんて単語よりもよっぽどリアリティがあるように思えた。「実存」とは、無数の出会い、握手、包容、ぼろぼろのソファに深々と腰掛けて、共に英語で議論していくなかで、「共(とも)」に時間をかけて共有されていく「複数」としての存在の中に、縫合しきれない断絶や裂け目を見つけることだと思う。他者へと身を開くことは、自己の消滅なんかじゃない。パスポートの写真の若かりし頃の話から始まり、国家と権力、移動の自由、リアリティの所在、他者と世界を共有することとは何か。果てしなく続く対話の海の中で、新たに学んだり、気がついたり、考え直したりしていく。知識と知恵は、商品としてではなく、生きた身体を通じて交換される。
明日の時間ではなく、「今ーここ」にある時間。「手術台の上のミシンと蝙蝠傘の出会い」が毎晩どこかの路上で起こりうる、今日会った人と深夜まで議論し、安ビールを飲み、ガンジャの煙に包まれる。うっすらと青みがかった空が、ロウソクの光を消し始める頃に、続いてきた話をふと止め、タバコの煙がゆっくり中に渦巻くその姿をじつと見つめる。
ベルリンのTreptower Park駅で、ぼうっと電車を待っていたとき、ふと、そこで同じように待っている人々が、ほとんどホームの時計に目をやっていないことに気がついた。なんだか、その時計は、頭上でチカチカと鳴り響くような安い奇妙な機械のように見えた。
ベルリンの友人が言った事を思い出した。世界には3つの時間がある、太陽や季節の周期という自然の時間、人間や動物が体内に有する時間、そして時計という機械仕掛けの時間。現代における都市という都市は、この機械の時間によって制御されている。自由な時間は時計の中には刻まれていない。一瞬たりとも次に来る秒、分、時間、日から逃れられない。外部なき時間、一方通行路。
けれども、ベルリンでは、人が機械の時間をあまり気にしないことで再び見えてくるもう一つの時間の複数性を目の当たりにすることができる。それは、ベンヤミンが述べたように都市の原初に胚胎されている複数の可能性そのもののように思う。人それぞれが持つ固有の時間以上に時計の一般性が重要であると信じる事をやめたとき、いくつもの時間とそれぞれの参加している社会のいくつもの形が浮かび上っていることに人は気がつく。国家や民族といった言葉は、この複数の時間と社会の中ではあまりに浮ついている。人それぞれの人生は国家や民族の掲げる一般性のように単純ではない。国家や普遍や伝統という単語が有効なのは、皆が時計の針の動きを信じる時、つまりある特定の原理を皆で崇め奉るときに限る。それ以上、自分の信じているものを疑わなくもよいし、隣の人間についてあれこれ思いめぐらす必要もなくなるという理由で。
日本はどうだろう。インターネットや日記を通してちょっと振り返る。未だに、日本人/在日、右翼/左翼などという陳腐なラベルが溢れかえっている。そしていつも自らだけが正しと主張し、その正しさを押し通す為だけにむなしく言葉が費やされているのをよく目にする。機械の時間の中では、もはや長い長い対話や議論は、面倒くさいものとして矮小化され、省略されてしまう。対話や議論には実は終わりが無い。それはいつでも中断できる代わりに、またいつでも再会できるし、世代や国境を飛び越えることだってできる。だからこそ、人間は世界が自らが信じる以上の広さと奥行きと、決定的断絶を、見て、聞いて、それを誰かに話したり、共有したりできる。
おそらく、この終わり無もなく、時間と地理を飛躍する言葉と思考の複数的な交換は、自己の「正しさ」だけを叫ぶ人間にはもっとも向き合いたくないものの一つだろうと思う。なぜなら、彼らは、別の世界があるという事実を受け入れる程には、他者の世界と関わる経験なしに、世界は他人を蹴落とす事でしか生き残る事ができないと教えるシステムの中で育ってきたから。要は、学校で教わったことを、途中で疑い自ら考えなおすのではなく、死ぬまで信じ、それに異を唱えるものを徹底的に排除しようとする。
対話する他者の存在を恐れ、黙らせるためだけに、レッテルを貼付け、差別して、自分は権力の側にあると安心するこの卑屈で、偏狭な性格の人間を大量に生産してきた結果が、今の日本の問題の深いところにあるのかもしれない。最近の、アントニオネグリの来日中止や、映画「靖国」の上映中止問題、反日や国益という単語そのもののイデオロギーに染まった意味をあえて不問にして、他者との議論や対話そのものを恐れ続ける社会とのレミング的な姿を前に、今年の夏に、別の世界のざわめきを届けるにはどうすればよいかを考えている。
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2008-04-09
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