
「The Kayapo:Out of The Forest」
今日のEthnographic Filmの授業で観た、ブラジル先住民「Kayapo」族の人たちのドキュメンタリー。1989年に制作されているが、他のEthnographic Filmと異なる点は、Kayapoの人々が、自分たちでビデオカメラを手にし、編集操作を学び、自分たちの文化を記録するだけでなく、自分たちを取り巻く「いまーここ」にある政治的な問題を表現していったという経緯があるということだろう。この映画自体は、Michael Beckhamによるものだが、その映像は、Kayapoの人々が自らビデオカメラを持ち、自分たちの儀礼を撮るところから始まる。それまでは、写真やフィルム等の記録装置は民族誌家や映画作家の特権的まなざしとして占有され、先住民の人々とその生活は写される/記録される側として、表象=対象化されてきた。この「カメラを持つ(見る)ーカメラを持たない(見られる)」という非対称的な関係は、「文化」の客観的記録やその独自性を追求するあまり、撮られる側の人々の生活の現実的政治的側面が往々にして見過ごされ、もしくは意図的に排除されるという結果を招いた。(「高貴な野蛮人/Noble Savage」としての先住民)
Kayapoの人々はカメラの技術を取り入れることで、自分たちの生活と文化を記録し、次の世代に残すプロジェクトを開始する「Indigenous Media」。そこでは、生活圏であるthe Xingu Riverが、IMFの出資によるブラジルの電力会社によるダム建設によって破壊されていくことに対する反対運動の展開を通じて、見る者に、先住民の人々の文化とアイデンティティーの問題を現代の政治的状況のただ中へと提示する。伝統的な円形集落内の男性用の小屋から始まったダム建設反対集会の提案からその計画、Xingu River周辺に住む部族へ呼びかけとラジオ無線による連絡のやり取りの様子、無許可で開拓されている畑をセスナで上空からの視察する様子、実際に稼働しているダムを視察に行く様子。どれも、自発的な組織化のプロセスを映し出し、同時に西洋の技術を単に否定するのではなく、有効に自分たちの方法で再組織化し、新たな使用法をもって対処する知恵も映し出している。特に、最後のブラジルの電力会社の代表が出席した集会での、それぞれの部族の人々が「ブラジル人(=白人)」への抗議の声を発する場面は、とても力強く情動的で、かつ政治的な状況に満ち満ちていたのが映像を通しても伝わってくる(「ダムが10年100年続くと言うが、それは我々に100年死ねということか」という発言や女性がダム会社の代表の頬を鉈で撫で付けるパフオーマンス 等々)。Kayapoの人々は、ダム建設の反対を「抗議」と呼ばず「戦い/戦争」と呼んでいた。彼らの言う「戦い」が、集会の実現と彼らの生存を脅かすダム会社との交渉を設けることで遂行されていくのならば、それはブッシュやその側近達と、日本の追従的な政治家達が声高に叫ぶ「民主主義」が最も無視し、踏みにじっている部分を、Kayapoの人々は蘇生させ、実践しているということに気付くはずだ。
No comments:
Post a Comment