(以下:「イルコモンズのふた」より抜粋)
食の主権とデザインは誰のものか? 世界8大強権国(通称G8)の首脳たちと大企業が手を組んで、いま強行におしすすめようとしている「農業のグローバリゼーション」と「農産物の工業製品化」に対して抗議する、先の「呼びかけ文」のなかにもあったように、いま大勢の人たちが「決して手放してはならない」と必死で抵抗し、懸命に守ろうとしているのは「食の主権」です。つまりG8に反対する行動は、人間の「食」とその「文化」をめぐるたたかいだといえます。それで思い出した文があるので、ちょっと長くなりますが、引用してみることにします。
それを書いたのは、今は亡きドイツのグラフィック・デザイナーのオトル・アイヒャーです(アイヒャーは有名なデザイナーなので、知らない人は自分でネットで調べてみて下さい)。ここに引用したのは、小田部麻利子さんの訳で、雑誌「アイデア」に掲載されたもののその一部を、例によってイルコモンズが勝手に抜粋し、勝手につなぎあわせたものです。
オリジナルのテキストでは、文の最初は「労働者たちのなかに」と書いてありましたが、読み進めてゆけば分かるように、この話は労働者に限った話ではなく、人間全体についての話なので、最初のところでつまずかないように、そこを「消費者たち」に変えて、僕らにもあてはまる話として読みはじめることができるように小細工しました。ほかにも、文の意味を損なわない程度に字句や言い回しを変えています。原題は「デザインとしての世界」ですが、翻訳本を出版するときなどによくやるように、議論の内容がわかる副題をつけました。「デザインとしての世界~料理・教育・デザイン」というのがそれです。
オトル・アイヒャー「デザインとしての世界~料理・教育・デザイン」(1994年)
「消費者たちのなかに、自分自身の考えにしたがって生きようとする欲求が育ちはじめたり、彼らが自分自身のデザインをつくりだしたり、自分のアイデアにもとづいて仕事を実行したり、自分自身の思うところのしたがって何かをやりだせば、それはすなわち、世界の発展と存在のために必要なのだ、と教えこまれてきた権威の失墜ということになる。クリエイティブなアナーキーがむしろ待望されている文化的な領域がある。理性が情報を処理する器官で、身体の、つまりは脳の一部であるとするなら、食べることもまた文化的なひろがりをもった人間の領域とみなされていいはずだ。いまや、産業による私たちの「食」の単純化と経済による平準化の傾向に誰しも気づかないではいられない。しかし、それでもなお、飲食、収穫、調理の文化は、あの唯一の偉大なる真理とやらとは無関係に存続している、文化的領域である。世界全体がそれに関心をむけている。材料を刻み、煮炊きをし、味つけをして食することは、文化の大きな賜物である。私たちの人生の重要な瞬間も「食」と結びついている。人は対話を通じて、自らが主体的な存在であることを認識するのだが、そのための場を提供してくれるのが会食である。宗教的な儀式では特定のものを飲んだり食べたりする行為が、中心的な意味を持つ。食文化には無数の伝統とともに、無数の自発性がある。私たちは日々、何が食べたいとかと、どれがおいしいとか、こんなものをつくってみたいと考えながら「食」と密接に関わっている。そこには絶対的な権威など存在しない。なぜなら食に真理などないからだ。それでは、私たちの「食」はどうあるべきなのだろうか。それは人間性の問題であり、デザインの問題であり、まだ手探りの問題である。とはいえ、有効な真理が存在すると判断をくだせるような「食」の最高裁判所など存在しない。食文化の総体は、たとえてみればペストリーのように柔らかくふんわりしているので、最大多数の利益などという旗印のもとに生み出されたジャンクフードに抵抗し、食のモラルの発見にいたる可能性は依然として失われていない。食の真理は台所からうまれる。つまり食の真理は、実行から、なすことから、つくることから、実際の使用から、生まれるということだ。「食」という全人類に関わる文化で、主体的な独創性が発揮されるのはオーブンレンジにおいてであり、それ以外のところにはない。しかし、権威をあなどってはいけない。権威は「私たちに間違いはない」と宣言し、勅令を発し、権威を支持する人びとには称号や勲章まで授与する。権威は教科書を出版し、権威の存在が必要であることを、科学でも研究でも教義でも信仰でもなんでも使い、資金まで与えて証明してみせようとするだろう。しかし、料理の世界には教授も博士も受賞者もいない。もしいるとすれば、それはおそらく、この文化の終焉であろう。ある料理が他の料理より真実なことがあるだろうか。ある生命が他の生命よりも正当なことがあるだろうか。教育についても同じである。かつて人びとは、然るべき子供の養育の仕方を心得ていた。しかし今日はもはやそれが分からなくなった。しかし、そうなったのは私たちに適切な知識がないからではなく、教育というものが個人に応じたケースバイケースな事例だからで、私たちがみなひとりひとり異なり、それぞれ唯一無比な存在だからだ。デザインするということは、自分を生み出すことである。それをしない人びとは、文明社会における奴隷である。デザインのなかで人はあるべき姿を獲得する。動物にも言語や知覚はあるけれども、デザインする動物を私たちは知らない」。
イルコモンズのふた
http://illcomm.exblog.jp/5525773/
料理の世界は、ばらばらに分断された世界と人との関係を、もう一度つなげる力がある。
今年の6月にドイツのロストックの反G8のデモに行った時、途中でバテかけたデモ隊のみんなを喜ばせ、元気づけたのは、叱咤激励でも、もちろん報酬でもなくて、移動式の大きな鍋に入ったベジスープとふかふかしたジャガイモを、はるか離れたキャンプベースから運んでくるフードサプライのグループが畑向こうからやってくる姿を見つけた時だった(もっとすごいことに、移動式キッチンを積んだバンまであったのだ)。
晴れた6月の北ドイツの空の下で、皆と一緒に同じものを食べる。これは、どんな批判理論や抵抗論でも記述できない、「共同」の経験そのものだと感じた。
今、マレーシアの村落の食と共同体について書かれた民族誌を読んでいるので、また次の機会に。
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