もう一週間前になるけれど、横浜での展覧会のバイトの後に東京に3日間滞在した。その三日間は、不思議と「公園」にまつわる話、公園の映画、そして公園での出会いを立て続けに経験していた。そこで、公園というものが、ただ日常生活の傍らにある余暇のスペースとしてではなく、もともとあったであろう法の及ばない場所としての「自然」が私有化された土地に囲まれ零落した姿となりながらも、資本と消費活動に覆われた後期資本主義の壮大な実験場たる東京の中で生存し続ける為の避難所、見知らぬ人達と出会い、集まり、時間を共にできる公共圏として存続し続けてきたということ、そして、いまー激しい攻撃にさらされているということを知ったり感じたりした。その3日間から、少しずつ書いて行こうと思う。
9月22日の夜、渋谷の南口改札を出て、明治通りを跨ぐ歩道橋の階段下で行われていた「246表現者会議」に参加した。陸橋の階段横に人除けのフェンスに黒板ボードをつり下げ、路面に段ボールを敷いた場所に10人くらいの人達が地べたに座り込み、楕円形の車座になって話している。246会議は、もともと渋谷駅南の246号高架線下にいたホームレスの人達が、とあるデザイン専門学校が請け負った高架下の壁画制作の為に追い出されたという出来事に対して、アートや表現の名の下で生活の排除が同時進行されていくことへの疑問を持ったアーティストの小川てつおさんと、いちむらみさこさんが始めた集まりだ。だいたいは月に一度の頻度で夜から渋谷駅近く路上で開かれている。
僕は6月末に一度、アメリカから来たパペットアクティビスト(人形を使って政治的社会的メッセージを表現する活動家)のDavid Solnitとその仲間達と一緒に、渋谷駅前の半蔵門線の地下口前で行われた渋谷サミットの打ち合わせ会議に参加したことがあって、そのとき見た渋谷の街の風景がそれまでと全く違う様に見えたという強烈な印象が残っていた。
慌ただしく、せき立てられる様に通り過ぎて行く人々の流れの中で、路上のアスファルトの路上に車座になり、犬や子供の目線のように街を眺め、広告でテカテカに照らされビルに四方を閉ざされた空の下で、お互いの顔を見ながら、そして、誰かがしゃべっている最中には彼/彼女の言葉を、足音や広告テレビの大音量から注意深く聞き分けようとしている人達の輪の中に入ると、不思議なことに、その場所に独特の暖かみや居心地といったような感覚が現れてくることに気がつく。建物も壁もないところで生まれる、そこに座る人達の体が輪になって互いに近づくことで生まれる一つの柔らかい空間。言葉はその内部で交換され。繋がり合い、消えたり共有されたりしていく。そのような風景の中に身を浸す事は、とても衝撃的で愉快な経験だった。むき出しの外部のような渋谷駅の正面で、もう一つの場所が生まれて、そこではもう一つの時間の流れが作られていた。だから、今でも、何を話したかということよりも、集まった人達がつくりだす現象的な要素の方がとても印象に残っている。
22日の夜は、今渋谷区で勧められている宮下公園の民営化(区の公園の命名権と開発をあのスエットショップ問題で悪名高いナイキ社に売却するという区議会の動き)に反対する為のアクション(デモ)の会議だった(関連は:みんなの宮下公園をナイキ化計画から守る会)。会議では、簡単に時間と進行の調整のために、本日の議題が書かれた黒板が掛けてあり、それぞれの人の発言は小川さんのノートに、参加者持ち回りで筆記されていく。デモの時のコールの新しいアイデアや、うなぎパペット制作の話から参加して、途中から来るひと、途中で抜けるひとの入れ替わりの中で話し合いは進んで行く。話は、宮下公園が現在どのような使われ方をしているのかというところから、野宿と公園利用者(区民)との再開発への見解の違い、日本における公共圏、存在を受け入れる場所としての公園の意義、ナイキ化されるということは、金の有無による空間の私有かではないかといった議論へとふくらんで行く。
それぞれ発言は、ノートに記録され、246表現者会議のblog上で再確認できるようになっている。議論の中で、公園とはどんな場所だろうという話になり、その場で思ったことを皆で言い合う。ある人は「生活が追い込まれたときの最後のセーフティネット」だと言い、また他の人は「公共の秩序というものを皆で習得/学習する場として日本の公園が使用されて来た」と語る。どの意見が正しい/間違いという不毛なゼロ•サム論争ではなくて、出来る限り視野と意見の複雑さ、雑多さへ自分達の考え方の幅を広げて行くプロセスとして議論は受け入れられ、また、応答されてふくらみをもっていく。僕は、公園は「そこに居ることを否定されない場所、お金が全く役にたたない場所」だと思ったので、そのように言ってみた。でも、その時、僕はこの場所であつまって「公園とはどんな場所か?」と話し合っていること自体が、すでにこの場所で何か「公園的なもの」が生まれつつあるようにも思えた。そして、今度行われるデモも、何か反対の意見表明の場としてというよりも、デモそのものが「移動する公園」のような形になればいいと思ったりした。
つづく
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2008-10-01
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