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2007-11-14

公園の政治学



午後からAnthropology and Developmentのレクチャーを聞きに行く。
内容は、MozambiqueとSouth Africaにまたがる、The Limpopo National Parkの設立が、その地域に住む人々にどのような影響を与えているかについて。公園という領域が、生の環境を別の政治的な秩序として再構成する文化資本であり、その場所でもともと生活を営んでいた人々が必要とする生活の条件を破壊することで成り立っているという指摘だった。アフリカの旧植民地における公園の起源が、入植者達の狩り場であり、公園の整備はIMFを初め多くの国際資本が介入したビジネスであること、公園の境界線が持つ国境としての政治的意味、環境保護名目の補助金の軍事ビジネスへの流用等々、初めて知った。

環境保護政策を名目とした「自然」公園の整備と環境ツーリズムは、その裏で人々の生活に関する問題を覆い隠してしまう。例えば、これまでそこに住む人たちが自由に行き来していた地域が突然、「自然公園」となることで、自由な移動と交易、生活を支える狩猟活動が「違法行為」として閉め出され、これまでの生活形態とそれに基づ儀式的伝統が失われること、現地の雇用の促進には必ずしも寄与しない(外部からの雇用)こと、南アフリカから輸入された動物種による作物の被害等々だ。(もちろん、フェンスの設置自体には密猟者の侵入防止という名目もあり、その点はもう一つの考察が必要となってくるだろう)


本来は、無償で自由に開かれてあるものを、フェンスで囲い込んで、アクセスを「法-承認されるべき暴力」によって制限することで、富と権力を再生産することは、K.Polanyiが指摘した、イギリスの「囲い込み(enclosure)」から始まる、産業資本主義の最悪の発明の一つだと、最近つとに考えるようになった。(ロンドン中心の家々は、猜疑心に満ち満ちた槍型の黒塗りのフェンスに囲まれている)。よく写真で見かける「自然あふるる野生の」自然公園というイメージは、資本化され、階級化された市場としての新たな「自然の表象」(高祖,2006:58)ということになる。

それでも、それらの囲い込みに反抗する人々の姿も紹介されて、その点をもっと聞いてみたかったのだが、それは終わってから思ったことなので、もうおそい、いつもこういう思考のタイムラグに悩まされる。
その中で、公園に設置されたフェンスを取り除く運動というのがあったが、この「境界線を撤去する」という行為自体は、アナーキズムの「移動の自由」を巡る直接行動に似ているところがある。アナーキストのフェンスの破壊という直接行動は、暴力的であるとしてよく非難されやすいが、そこには「制限し排除する暴力」を排除するという別の倫理的意味が含まれるべきだと思う。

The Limpopo National Parkについて http://www.peaceparks.org/news.php?mid=393&pid=72
フェンスの設置を巡る問題      http://www.sadocc.at/news2002/2002-377.shtml

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