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2007-12-14

アナキズムと文化人類学

毎週木曜のEconomic and Political Anthropologyのレクチャーの最後のテーマは、「アナキズムと文化人類学」。早稲田にいた頃、アナキズムなんて授業で習った記憶がないし、誰かが口にしたのも聞いたことなかったけれどけど、文化人類学の中では皆、結構このテーマで議論することも最近は多い。

レクチャーで知ったことと言えば、ほとんどが支配と暴力の系譜学のような近代ヨーロッパの文化と政治の歴史の中で、支配の為の暴力と権力の集中を真っ向から否定する平等思想と実践としてアナキズムが続いてきたこと。それは、資本主義はもちろん、共産主義とも異なるし(権力の集中を否定する点で1890-1910年代にヨーロッパを中心に大きく世界的に思想と運動が広がり(ちょうどその時期は、ヨーロッパでダダイズム運動が展開した時期と重なるが、それは二つの運動は車輪の両輪のように互いに作用していたからだ)、2000年代の「新たな帝国」のまっただ中、再び注目が集まるようになってきた、という感じだ。

僕なんか、もし一昔前にアナキズムトハ?と聞かれたら「えー、なんだか怪しくて、暴力的なアブない人達で、政府はいらないとかいうし、、」と90パーセントネガティブな返事をしたと思う。アナキズムは、「暴力を持って目的を達成する」という考え方の是非をめぐる問いをその思想の核に据えている、だからこそ「暴力を手段として人々を管理」することに対して盲目的に肯定する「政治システム=国家」の問題を常に問うことになるし、その組織的暴力の押しつけに対抗する方法について考えたり実践したりする。もっと重要な点は、アナキズムは、合意形成に暴力が介入することを拒否する、全員で納得できるまで話し合い、最終的に全員の合意が得られるまで議論し続ける、誰でも拒否権を持つし、誰にでも発言権はある、グループの内部でヒエラルキーを作らない、そして他の価値観を持つ人たちに、自分たちの決定事項を押し付けない。

簡単に言えば、「自分たちのことは自分たちで納得いくまで話し合って決める代わりに、それを他のグループの人たちに無理矢理押し付けることはしない、その前提の上で、どうしたら異なる考え方の人々とうまく共存できるかを考え、実際にやってみる政治の方法」と考えた方がいいと思う。これは、何も特別な仕組みではくて、普段みんな日々の生活の中で普通にやっていることだ。友達や恋人と映画に行く時、レストランを決めるとき、みんな日常生活の中で当たり前のように、この方法を使っている。

もちろん、多数決を取る時もあるだろう、では、それはどんな時だろう?それは、一刻も早く何かを決定しないといけない状況に追われている時だと思う。全員が緊急に同じ行動を取る必要に迫られた時、一人一人が個々の意見をじっくり突き合わせて合意形成を目指すことは、その集団にとって危機的な状況をもたらすかもしれない。そののような状況下では、直截的な話し合いによる合意形成よりも、数の論理で行動を決定する投票および挙手の方法が採られる。この方法は、ぼくらになじみの深い「間接民主制」と呼ばれているが、この方法の起源はギリシアの都市国家が戦争状態の時に一時的に「直截民主制」を停止し、集団に対する緊急の強制決定権を少数の者に委ねるという政治的技術に由来する(D.グレーバー)。となると、「間接民主制」を政治システムの中心に据える社会とは、常に社会を「戦争状態」にあると想定し、強制的決定とその命令を可能にする政治原理のなかで動いている社会ということになる、つまり「間接民主制」とはある社会を「戦争状態」に対応するように作り替えてゆく政治技術ということになる。僕たちの日常は、戦争のただ中に埋め込まれている。

アナキズムのどこに文化人類学との接点があるのか?文化人類学のこれまでの主なフィールドは、非ヨーロッパ地域の狩猟採集民族社会の仕組みを研究することだった。ということは、「国家」を社会の原理としない別の形態の社会の姿を研究してきたきたわけで、それはアナキズムが目指す社会の姿が、すでに世界のあらゆるところに存在していて、いま現在もそうやって生活している人たちがいるという厳然たる事実から出発した学問と言っていいと思う。「ヨーロッパの政治システム=国家」を普遍としてではなく、それを極めて特殊なローカルなものとして考え直すものの見方、考え方だ。だから、文化人類学で見えてくる、アナーキーな社会とは、まだ見ぬ未来の理想像なんかじゃない。これまでいろいろな地域に住む人々はアナーキー(平等志向で、相互扶助的で、権力と暴力の一方的譲渡をしない)な社会の仕組みを考え出して、実際にそうして生きてきたという事実を知ることだと思う。だから、文化人類学者はある意味、多かれ少なかれアナキスト的性格ををもっている。

もちろん、ヨーロッパ以外にも中央集権的な社会システムはあったし(中国やメキシコ)、暴力に対する認識も千差万別だし、狩猟採集社会を理想化し過ぎだという批判はもちろんある。ただ、文化人類学を通して得られる一ついい点は、他の無数の社会のモデルを知ることで、今ー自分たちが生活している社会のモデルが唯一正しとは限らないということを知る、ということだ。自分たちの考え方は、常に環境や文化、社会の条件に制限されているが、それは、その社会の形と考え方しか存在しないということを意味するわけではないし(例えば、資本主義と共産主義だけが社会のモデルではない、ということ)、それに固執しないといけないというわけでもない。僕らの限られた脳みその容量と限られた理解の方法で、世界や他者について一色単に語れることは不可能だということを知ることから、スタートしてみると、思ってもみない世界や考え方に出会えるかもしれない。

付録 Youtubeで見るアナキズム
I. Anarchy

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