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2007-12-13

世界はオセロじゃない




先週から、続けて映像人類学のフイルムと、ドキュメンタリーを立て続けに見たので、うっかりしたらどれを見たのか忘れそうだ。日曜は、South Kensingtonにある、French Instituteで、Jean Rouchのフィルム2本の上映会に出かけた。昼間からの雨で人はまばらだったけれど、上映中僕はすっかり夢中になって、身悶えするくらいに没頭してしまった。詳しくは後日書こうと思うけれど、その日見たのは、まだ白人と黒人の社会的区別が自明のこととして考えられていた60年台始めに制作された「La pyramide humaine

フランス植民地下のコートジヴォアール首都アビジャンールの高校で、フランスとコートジヴォアールの学生を同じ教室で一年間過ごす設定で描かれる。Rouchのカメラは、学生達が時間を経てお互いに対する意識と葛藤が変容していく様子に肉薄していく。映画は、Rouchが素人の学生達に、この映画の意図を話し出演の承諾を取るところから始まる。大きな話の骨組みはRouchによって設定されているが、その他は、実際に白人と黒人の学生達が授業を共に受ける日々の生活の中で生み出され、登場人物達はその状況に応じて態度と相手に対する振る舞いを変えていく。フィクションとノンフィクションという2項対立は、ここでは全く意味をなさない。映画の後半で、それまでに撮られたフィルムを登場人物達が皆で見るシーンがあるが、映画の「演じる(俳優)/観る(観客)」の対立が映画の中で解体されている様子を目の当たりにする。最初は、白人と黒人それぞれのグループが、互いに相手を非難し合い、互いに接触することなしに、否定的にカテゴライズすることに終始していたが(植民地主義の文脈の中での対立項)、時間が経つにつれ、徐々に互いを知ることで、互いに集団ではなく個人同士の付き合が生まれてくる、そして大きな人種というカテゴリーは融解していき、恋や友情の葛藤へと状況はより複雑なまだら模様を呈してくる。Rouchの抜きん出た点は、ただ単にこの映画をただ単に人種間の政治的な問題として映すのではなくて、それぞれの個々の生、黒人であれ白人であれ、恋に焦がれたり将来に不安を覚えたり友人との軋轢に悩んだりする「そこにー共にいる」若者達の姿をそのまま、その政治的な次元からすくいあげて、カメラの前に直截差し出すという方法にあると思う(政治的状況を一般化しない)。そこには白と黒には絶対に還元され得ない、人間の複雑に絡み合い、時間と共に移ろいでしまう世界と他者との関係の絶え間ないゆらぎがレンズに映る。

Rouchが人間を映し出す視点は、「人種差別に進歩的な意見を持つ」フランス人のナディーヌが、「恋愛関係において誠実である」とは限らないという点において、その広がりを持つ。日々の生活で僕たちはまさにこのような割り切れない矛盾した自身を生きているというのに、政治を語る時はとても偉そうに主義主張を真しやかに語り、語る自身の抱える「揺れ」は語らないし、問われない。これが、僕が考える今の政治、および社会科学の大きな問いだと思う。「物語/真実」「黒人/白人」「政治/生活」「友/敵」そのような単純な2項対立は、自分と世界/他者との関係において「わかりやすさ」と「確かさ」を与える代わりに、自分達が日々の現実のきめ細やかな無数の分岐点のただ中で、割り切れない不可解さを持って無数の選択の中から何かを選び取り、退けているというその不安定さ、不確かさを覆い隠す。でも、テキストの言葉をそこまで信用していいのだろうか?自分の目と耳と手をもって確かめることをせずに。

Rouchの映画は、この2項対立を映画の時間の中で解体させ、より微細な人間の生の流れを映し出して行く。それは魔術師が儀式を通じて世界と人間のある、一時的に硬直してしまった関係(病気や、干ばつなどの災厄)に変化を促すように、カメラの時間をその作業の顕示に捧げるのだ。「重要なのは、どのような結末か、ではなく、カメラの前で何が起こったかを知ること」だ、と映画の最後でRouchはそう言っている。

もう一つの民族史映画「Les Maîtres Fous (The Mad Masters)」1954年は Youtubeで見ることができます。
こちらも、ものすごいインパクトがあったので、いずれここに感想を書きます。

「Les Maîtres Fous (The Mad Masters)」1954,Jean Rouch


The Mad Masters (part 2 of 3)
The Mad Masters (part 3 of 3)

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