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2007-11-18

鮭の隙間にかすかに見えたもう一つの世界について



















昨日は、台湾人の友人Kuoweiが、ロンドンを離れベルリンへと向かう最後の晩だったので、彼からもらう約束をしていた仕事机のお礼もかねて、近所のスーパーで丸々一匹のシャケ(スコットランド沖から来たと書いてあった)を買い、彼の家に向かった。さて、当の本人は、パッキングが終わらず二階でドタバタしているし、僕は丸々シャケ一匹さばいたことがないので、どうしようかと思いあぐねていたら、向こう側でパソコンをしていたKuoweiの家の台湾人のフラットメイトのAlexとEathenが来て、「まず、鱗をとって、、、」
と途中からアドバイスと実演が始まり、途中でKuoweiの彼女のTiphanyも来て、「鱗がきれい、私も鱗取りりしてみたい」となり、結局5人であーだこーだいいながら、一匹を解体し終わって、シャケの炊き込みご飯、頭でだしを取ったみそ汁、切り身のオーブン焼きをつくり、皆でたべた。

うん、一つの魚を皆で解体して、料理して、一緒のテーブルで食べる。これだけでも、5人の人間が3時間共同して、知識を交換しあい、どのようにプロセスを進めて行くか協議し、何を作るかを合意形成してく。そして、その成果を皆が等しくテーブルの上で分け合った。それだけで、いつもの食事の風景とはすこし違った、愉快なものになった気がした。

今週ずぅっと読んでいた、経済人類学のテキスト群に共通していたのは、資本主義の進展は「商品化=疎外化」のプロセスそのものだということ。もし、切り身の鮭を僕が3人前だけ買っていれば、残りの二人とは何の関係もなくなるし、「鮭をさばく」という行為自体は、僕らの目の前から「消えた」ように見える。あとは、焼いて、食べるだけ。ほら、「食べる」という行為に到達するために必要なプロセスが一つ消えた(本当は、誰かがそれを安い賃労働で肩代わりしているのだけど)!

目的まで、最短距離で到達して、その果実を貪りたい合理的近代人=Econimics Manにとってはこの上なく魅力的だろうが、それは昔話で出てくる「欲張りじいさん」の意地汚い性格にとてつもなく似ているのだ。

「商品」とは「自然と人間の本来的直接的関係と、その結果としての生産物が、社会的分業の展開と金融資本による分業の排他的独占を通じて階層化され切り離されることによって生じた事物の抽象化」のプロセスである。そして、その上で、おおよその自然との直接的関係を失った「個人」により構成された市場の中において、貨幣という量的関係性の上で希少価値を付与され、その貨幣によってヴァーチャルに交換されるものだ。それは、言い換えると、自然と人間の共同作業が排他的に分離され、抽象化されるプロセスだ。だから商品とは、「商品」という固定され、完成された概念の物象化というよりも、「商品化」という経過的な手続きの中で変化し(物象化し)続けるものと言った方がいいだろう。

だから、僕が鮭一匹を買った時までは、僕は鮭を「商品」として手に入れているが、「切り身パック」ほどは「商品化」は進んでいない。(けれど、この資本主義社会の中にあっては、所詮は程度の問題にしかならないのかもしれないと、悲観的にもなるのだが)。僕はスコットランド沖でこの鮭を釣ったわけでもないし、内蔵を取り除いたわけでも、ロンドンまで運んだわけでも、腐らないように冷蔵保存していたわけでもない、それはすべて他の誰かの労働で、僕は企業(彼らのやっていることは、それら一連の労働のプロセスを管理しているだけ)が付加した余剰価値を貨幣で支払うことで、それまでのプロセスを一気に飛ばして、それらを行った「彼ら」ではなくて「僕」が鮭を所有することができる。お金を持つということは、人々の労働を私的に所有できるということだ。なんという、この魔術的なイカサマ、現代の奴隷制!

つまり自然の鮭自体には、お金に還元可能な価値は無い。だって鮭は、自分がいくらで、どのくらいの値段で切り売りされるかなんて考えないからね、それに一労働自体をお金で算定することも本当はできないし、設備の減価償却という考えもそうだ。すべては関係性の網の上で決定される。価値は自然に所与のものではなくて、市場によって作られるものだ。

普段買わない鮭一匹を購入して、姿を現したのは、しばらく僕の現前から「消えて」久しい、一連の解体行為だった。そして、それはその周りにいる人たちを巻き込み、キッチンを自発的な共同作業の場に変える。それらは、すべて「パック切り身」の商品たちが、消費者たちに対して不可視にし、遠ざけていた部分に他ならない。考えてみれば、「消費者」という言葉ほど、人間に対して何もかも奪い去った後のような、不毛な響きはないんじゃないか。僕は学生だから、もう純「消費者」に最も近い。。もちろん、現代では皆ある程度生産者かつ消費者でもある、けれど、この度合いは、それぞれが属する社会グループ(階級と国籍)によって大きく決定されてしまう。映画「ダーウィンの悪夢」で語られた、タンザニアのムワンザで毎日大量に獲れるナイルパーチの白身のように、獲った彼ら自身の口に入る機会が、それを購入できる人間と同じように平等である、ということは言えない。

僕らがお金で買った「不可視」の部分は、辿ればたどるほど困難なものばかりになっていく。僕は目の前の豚や牛を殺すことができるのか、そしてその四肢を切り、血を抜くことができるのか、鮭一匹を、5人掛かりでさばいた僕たちが?僕がそれを無しに、肉を食べることは誰かにそれを「肩代わり」させているということに他ならない、そしてそれは何も食物にかぎった話ではないということ。すべてが商品として存在し、その商品を買うことで「生」を持続させるシステムの下で生きる人間であれば誰にでも当てはまることだ。「当たり前」すぎる意見だろう、僕が経験した鮭と5人の愉快な解体劇もこのシステムからは逃れられない。ただ、すべてを顔の見えない誰かに押し付けて生きることは、もうできない。答えは、自分達の生を、自分達で引き受けるということでしか見いだせない。

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