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2007-05-21

鏡の住人<前編>



元々は川底であったという、Edinburghの駅に傍にあるFrutemarket Galleryに、Aernout Mikの展覧会”Shifting Shifting"を見に行く。
ギャラリー内での作品は、ビデオ4作品。一つを除く(この一つは後で述べるが)3作品は場所の設定は違うが、どれも特定の状況下にある人々の奇妙な振る舞いが淡々と、無音声で映され続けている。特に目を引いたのが、武装勢力と捕われた人質、そして難民が入り交じったスタジアム内部の光景を映した作品だった。固有の地名も、日付も、そして彼らがいかなる状況下に置かれているのかという
一切の説明もなく、全ての事態が観客の眼前にて、淡々と進行していく。そこでは、すべての行為は、一切が「説明されるべき(と我々が信じる)いかなる理由」も欠いたまま現れる。
なぜ、武装した男女がスタジアム内を占拠しているのか、彼らと着の身着のままで簡易ベット横たわる老人達はいかなる関係なのか、そして、傷つき、ビニール袋を片手に連行されて来たもうひとつの迷彩服の集団は誰なのか。

もちろん、観客だってこれが撮影されたフィクションであることなどは言うまでもなくわかっていることだ。しかし、撮影された出来事の解釈を支えるべき言葉を欠いた状況では、鑑賞者は作品を自らの解釈と理解の範疇に取り込む事はできずに、ただ画面での出来事の行方を目を見張って追いかけるしかない。作品の物語性や意図を導こうとする「解釈」という聞こえの良い言葉は、ここでは一時停止に陥ってしまうかのようだ。実際、この無音の世界で繰り広げられる人間の振る舞いは、どんなに些細なものであれ、理解できない暗号のように見える。内容を欠いたまま、ただ、その物理的な実態が露に、むき出しのままそこにー映し出される。それが「演技」であるか「事実」であるかという問いを指摘することは、何を私たちが見ているかを見誤らせることになる。ここでは、そこで行われたことしか映し出されていない。

むろん、この状況設定自体が捕獲者−被捕獲者とそれを傍観する人々の3つの振る舞いとして大まかな「敵ー友」の政治的規範に分類されるのだが、それならばなおさら私たち観客はこう自問せざるおえないのだ。

「一体どのような政治的規範が、外見的、身体的には特別な隔たりがない様に見える彼らを、そのように分け隔て、現時点での振る舞いを暗黙のうちに了解=承認させているのだろうか?」

しかし、この「問い」は観客が映像の向こう側での出来事にいかなる仕方でも、理解し、解釈できるものではないということを証言している。

最後に種明かしされるような、いかなる返答も、始めからこのアーティストによって拒否されている。返答無き映像に向かいあう観客は映像を受容する態度を自ら変え始める。

それでも、観客にはひとつだけ確かだと言えることがある。それは、このスタジアム内において「ある状況」がすべからく、その場に居る全員を巻き込み、彼らは我々には知りようもないその状況を、それぞれがそれぞれの仕方において理解し、その場所での振る舞いを決定し、かつ実行しているということ。それだけが、唯一、観客に差し出された内容でもある。
状況に対する疑いや疑念はもはやこの画面上には現れる事はない、また事物に人間の憂いや苦悩が投影される事もなく、人々は全てがすでに明白で、これ以上の疑念の余地などないかのように振るまう(その振る舞いが、例えその状況から被る苦悩や誤解、その他の個々の思惑であれ、すべてはその状況と自己の対応関係の内部において生起しているにすぎない)。

銃を手にした子供が囚われの捕虜の背を銃身でつつくことと、鞭を片手に牛を追いやる時の仕草の差異はここでは見当たらない。倫理的な問いかけや、検証すべき政治規範などはじめから設定されてもおらず、そこにただただ現れる無音の行為とは、一体何を語っているのだろうか、あるいはこう問えるかもしれない。
「もちろんこれは演技である、しかし、それは一体何の演技なのだろう?」
<続く>

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